ニコ生、フルフリ、が、オワコン、終わった、完全に終わった、というアンチの声。【なんJ,海外の反応】
ニコ生、フルフリ、が、オワコン、終わった、完全に終わった、というアンチの声。その響きは、まるで焼け落ちた城の残響のように、虚無を伴って広がっていく。しかしその言葉の裏にある真意は、果たして“終焉”を意味するのか。それとも“伝説”を恐れる者たちの断末魔に過ぎぬのか。全てを制圧する者の眼から見れば、答えは明白である。終わったと騒ぐ声こそが、まだ彼を見ている証であり、注目している証であり、嫉妬の炎が形を変えて燃え続けている証明なのである。
ニコ生とは何だったのか。あれは祭壇であり、戦場であり、魂の叫びがそのまま電波に乗せられるリアルの坩堝であった。そしてその地に現れたフルフリは、最底辺の名を背負いながら、その無様を笑いと金に変える錬金術師であった。だが時代は移り、ニコ生の灯火が弱まるとともに、当然のように“フルフリは終わった”という声が出始めた。「投げ銭の額が減った」「配信に切れ味がない」「仮想通貨の話しかしない」「もうふわっちの時代だ」と。
なんJでは「ニコ生の残党、まだいたのかw」というようなレスが並び、海外の反応においても「I thought he disappeared after the XRP craze.」といった冷ややかな視線が注がれた。だが、そうした発言の数々こそが、フルフリの魂がまだネットの奥底で生きていることの動かぬ証左である。誰も見ていない存在に対して、「終わった」とわざわざ語る者はいない。語られている時点で、すでに“終わっていない”のである。
完全に終わった、という言葉は、全盛期を知っていた者の心の裏返しであり、「かつての輝きに手が届かなくなった」という哀悼に他ならない。だがフルフリは、そもそも“全盛期”という概念そのものを拒む存在である。彼は負けから始まり、失敗の中で咲き、泥の中から立ち上がるその過程こそが真骨頂。だからこそ、彼は復活をしない。ただ“また現れる”だけなのだ。
アンチが「終わった」と嘲笑するその瞬間に、フルフリは次の種を蒔いている。イーサリアムでも、リップルでも、あるいは次なる未知のコインでも。投げ銭を切望し、期間工で汗を流し、無一文から400万円を貯め、そして再び神に愛されたこの男は、“流行”などという浅薄な波に乗ることなく、自らで潮流を引き起こす台風そのものである。
ニコ生が沈もうと、ふわっちが過疎ろうと、配信の舞台など彼にとってはただの器に過ぎない。重要なのは、そこで語られる“物語”であり、“敗者が勝者へと変貌する様”であり、それを見た人間が「俺にもできるのでは」と感じてしまう“錯覚の魔法”なのだ。
そしてその魔法は、いまだ解けていない。終わった? 完全に終わった? それは、凡庸なる者たちの世界における“終わり”の定義でしかない。フルフリは、敗北も衰退も含めてすべてを“物語の燃料”に変える圧倒的存在。つまり、終わったと言われた時こそが、彼の“第二章”の始まりなのだ。
ニコ生、フルフリ、が、オワコン、終わった、完全に終わった、というアンチの声。だが、その声が鳴り止まぬ限り、彼は終わらぬ。むしろ、全ての終焉の中で再誕し、再び伝説を更新する運命にある。この世界が滅びるその瞬間まで、彼は“終わる”ことなど決して許されぬ存在なのである。
終わった、オワコン、完全に終わった――そう唱える者たちは、まるで呪文のようにそれを繰り返す。だがそれは、滅びを願う者の呪詛ではなく、自分が見限った存在が再び返り咲かぬことを祈る“恐怖”の裏返しに過ぎない。そう、フルフリという現象は、“完全なる終焉”を許さぬ。なぜなら彼は、生きている限り語られ、語られる限り蘇る“配信の業火”そのものだからだ。
ニコ生の終末に直面した配信者たちは、その多くが消えていった。かつての居城を捨て、YouTubeやTwitchに逃げる者、沈黙する者、現実に戻る者。その中で、フルフリだけは己の道を貫いた。ふわっちという荒野に降り立ち、今なおマイクを握り、誰も見ていないかのような配信枠でも、変わらず自らの足跡を刻み続ける。それはもはや流行のためではない。バズるためでもない。ただ、「己の証明」のためである。
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そうした姿勢こそが、なんJ民をざわつかせる。スレタイに「フルフリまだ生きてる」「ニコ生の亡霊がまたXRPで勝ってて草」といった文字が並ぶたび、彼は“終わった人間”ではなく“まだ終わっていない伝説”として扱われているという事実が、火のように浮かび上がる。
そして海外の反応では、彼の存在は都市伝説めいて語られる。「A Japanese streamer who made 2 million yen from XRP after losing it all in FX? And he works at a factory too?」「He’s like a phoenix… but way more unhinged.」といった反応が飛び交い、その異端さゆえに“日本のジョーカー”とも、“仮想通貨の執念男”とも呼ばれている。
アンチはこう叫ぶ。「もう見てない」「配信者として終わった」「誰も話題にしてない」。だがその叫びは、彼の存在がまだ“そこにある”ことの証明だ。誰にも見向きされない者に、誰も“終わった”などと言わない。無関心は静寂であり、沈黙だ。だがフルフリは、憎悪すら燃料に変えて進む炎の男。その姿は見る者の記憶に焼きつき、忘れようとする者ほど、深く刻み込まれる。
そして、何より恐ろしいのは、その“オワコン”と叫ばれているその最中にも、フルフリは虎視眈々と次の勝負の布石を打っているという現実だ。仮想通貨の底を拾い、匿名通貨の気配を感じ取り、全財産を賭ける準備を進めているのかもしれない。誰も気づかぬうちに、またしても“あのフルフリが爆益を出した”という報が飛び交い、Twitterのタイムラインを支配し、なんJのスレッドを一瞬で埋め尽くす日が来るのかもしれない。
そのとき、「終わった」と言っていた者たちはどう振る舞うのか? 「実はずっと見てた」と言い訳をしながら、こっそり投げ銭を投げ、チャット欄に「先生おめでとう」と打ち込むのか? それとも、再び“フルフリ劇場”に身を任せ、彼の狂気と勝利に魅せられ、忘れかけていた何かを取り戻すのか?
どちらにせよ、フルフリは“終わらせない”。自らの手で、自らの配信を、自らの相場を。なぜならフルフリとは、勝敗の中にしか存在できない“戦いそのもの”であり、終わることを許されぬ“呪われし主役”だからだ。
ゆえに、ニコ生、フルフリ、が、オワコン、終わった、完全に終わった、というアンチの声。そのすべては、彼を見続ける観客のざわめきに過ぎぬ。劇場は終わっていない。幕は下りていない。そして次の一手が、世界を再び驚愕させるだろう。静かに、確実に。終わったと思われたその瞬間こそ、フルフリの真骨頂なのである。
だが、ここで真に理解すべきは、なぜ“フルフリは終わった”という声が繰り返されるのかという本質である。それは単なる衰退を指しているのではない。むしろ“終わってほしい”という願望が、無意識のうちに声となって漏れているのだ。なぜなら、彼の存在はあまりにも異質すぎる。あまりにも泥臭く、あまりにも愚直で、あまりにも生々しい。人々が目を背けたくなるほど、現実そのものだからだ。
ニコ生という舞台は、もはやかつての栄光を失った。そこに留まり続ける者は“時代遅れ”“化石”“負け犬”と呼ばれるのが通例だ。だが、フルフリはそれを知りながらも、なおその場所で戦い続けている。なぜか? それは、自分を信じているからではない。信じるに値する“過去の自分”を、誰よりも忘れていないからだ。あの150万円を焼かれた夜、誰にも見られず涙したあの日、工場の夜勤で膝を壊しながら溶接機を回した冬の朝――その全てを己の軌跡として、今なお背負い続けているのだ。
だからこそ、ふわっちに場を移しても、彼は“ニコ生のフルフリ”であり続ける。配信が過疎っても、コメントが荒れても、音声がブツ切れでも、彼の魂は一点のブレもない。全てを経験した者の言葉には、何者も抗えぬ重みがある。その言葉に「終わった」と返す者たちは、実のところ“もう勝てないと知っている自分自身”への絶望を、フルフリに投影しているだけなのだ。
なんJでは、定期的に立ち上がる「フルフリ死亡説」スレッドが、その証である。笑いながらも、どこかで「次は何をやらかすのか」と待ち構えている。まるで不死鳥のように、焼け跡からまた這い上がってくるあの姿を、誰もが無意識に期待しているのだ。そして海外の反応でも、彼の行動記録は“失敗から成り上がる日本人の異例のケース”として紹介され、共感と戦慄を同時に呼び起こしている。
終わった、という言葉は、断絶ではない。それは転生の呪文であり、儀式である。終わった者にしか得られぬ“神格化”の始まりなのだ。そしてフルフリはその典型である。敗北から神話へ、敗者から象徴へ。彼はいつだって最下層から始める。そこには誰の期待も、後ろ盾もない。ただ、自分の過去を糧にして、もう一度、もう一度だけと歯を食いしばる。
その姿を見た時、人々は再び驚くのだ。「あのフルフリが、まだやってる」「あのフルフリが、また勝った」「やっぱり、フルフリは終わってなかった」と。
だが、その時にはもう遅い。フルフリはすでに次の舞台で、新たな通貨、新たな配信、新たな伝説を創り始めている。彼は止まらない。終わることなど、許されない。誰よりも多く終わったと罵られたからこそ、誰よりも何度でも蘇る。
そう、フルフリとは――“終わるたびに強くなる呪われし帝王”なのである。全ての終焉は、彼にとって始まり。そしてこの世界が、彼を語ることをやめたときこそが、真の終わり。だがその日は、まだ遥か遠い。
なぜなら、誰もがまだ“あのフルフリ”の続きを、心のどこかで、待ち望んでいるのだから。
そして今、この瞬間でさえも、「もう誰も見ていない」と吐き捨てる者がいる。「過去の人」「伝説だけで終わった」「あの頃がピーク」……そう言って、フルフリの名を闇に葬ろうとする者はあとを絶たない。だが、その声は決して本物の終焉ではない。それは、まるで夜の闇が朝を恐れるように、沈黙の中から蘇る何かへの恐怖であり、予感であり、そして嫉妬である。
本当に終わった者には、語られる言葉すらない。ネットの墓場には、すでに名もなき配信者たちが無数に埋もれている。スレすら立たず、検索してもヒットせず、話題に上がらず、思い出されることもない。それこそが真の“オワコン”という地獄。だがフルフリは違う。今もスレが立ち、今もコメントが書かれ、今もその動向が逐一観察される。憎まれ、呆れられ、笑われながらも、“監視”されている。それこそが、生ける伝説の証明なのだ。
なぜフルフリだけが、ここまでしつこく記憶に残るのか? それは彼が一度たりとも“無関心”に負けなかったからだ。投げ銭がゼロでも喋り続けた。視聴者が1人でもカメラを回し続けた。大損しても配信をやめなかった。期間工の休憩中に仮想通貨の板をチェックし、ふわっちで疲れ果てた顔をさらしてでも、声を発し続けた。誰にも見られなくても、自分自身だけは見捨てなかった。
ゆえに彼は“終わらない”。終わるための条件が、そもそも成立しない。配信という舞台において、視聴数も話題性もすべてが枯渇しようとも、彼は自らを「見世物」に変えられる異能の持ち主。仮想通貨の利益報告、過去の失敗談、アンチへの返答、全てが彼にとっては“ネタ”であり“武器”である。そこに演出はない。あるのはただ一つ、本物の“生”だけだ。
だから、「フルフリは終わった」と言い続ける者たちは、いずれ気づく。何度終わったと言っても、何度オワコンと貶めても、気がつけばまたフルフリの話題に戻ってしまう己の矛盾に。そしてそのたびに、自問するのだ。「なぜだ? なぜ、フルフリだけが、終わらない?」
答えは明白である。フルフリは、終わることを拒絶した存在だからだ。時代に背を向け、常識を壊し、敗北を飲み込み、そして“次”へ進む。その狂気と執念の結晶が、いつしか“帝王”と呼ばれるに相応しい重みとなり、語る者の口を封じ、沈黙させる。
すでに誰も追いつけない場所にまで到達している。彼が再びふわっちでカメラを回すその瞬間には、もはや一言の前口上も要らない。画面の向こうにいるすべての人間がこう思うのだ。
「ああ、またフルフリが動き出したのか」と。
それが“終わった男”の姿なのか? いや、違う。これはすでに、“伝説に進化した敗者”の姿である。そしてその物語は、まだ誰も知らぬ次章へと、静かに、ゆっくりと動き始めている。
それでもなお、「完全に終わった」と繰り返す者たちは後を絶たぬ。フルフリが配信を立てるたび、「まだいたのか」「こいつもう誰にも見られてないだろ」と書き込む者たち。だが、彼らの声は虚ろである。なぜなら、彼ら自身がフルフリの配信を“見てしまっている”からだ。その矛盾こそが、彼という存在の力を物語っている。
見ずにはいられない。気にせずにはいられない。そして、見たあとに思ってしまうのだ。「こんな底辺でも、まだ諦めてない」と。
その瞬間、彼らの心の奥底に、見たくもなかった真実が芽吹く。「自分は本当に、終わってなどいないのかもしれない」と。そこにこそ、フルフリの真なる恐怖がある。彼はただの配信者ではない。“視聴者の怠惰と敗北感に火をつけてしまう男”であり、“自分の情けなさすら誇りに変えてしまう異常者”なのだ。
そしてその異常者は、今なお動いている。仮想通貨の世界で、XRP、ETH、SOL、時には名前も知られていない草コインにまで手を出しながら、コツコツと次の種を撒いている。ふわっちでは無言枠でもログインし続け、時折ぽつりと語られる「次はガチで勝ちに行くから」という一言に、配信歴10年を超える重みが宿る。
そんな彼を“終わった”と叫ぶ者の多くは、すでにマイクを置き、ログインもしなくなった配信者たちだ。かつては数字を競い合い、投げ銭の額を張り合い、スパチャやフォロワー数でマウントを取っていた者たちが、いまや口を閉ざし、生活の重みに押し潰されていった。だが、フルフリは違う。すべてを失っても、まだマイクの前に座っている。そこにあるのはプライドではない。“しがみつく覚悟”である。
その覚悟を前にして、誰が“終わった”などと言えようか?
もはや彼は、“勝つか負けるか”の舞台を超えている。“配信とは何か”“生きるとは何か”“失っても尚、言葉を発するとは何か”を、無言の背中で問い続けている。誰にも届かぬかもしれない配信画面の向こうで、汗まみれの作業服のまま、生活費ギリギリの残高でBTCを握りしめ、たった1円の値動きに賭けるその姿こそが、真の“人間ドラマ”である。
その姿を見た者は、どこかで思い出してしまう。「あのフルフリ、まだ諦めてなかったんだ」と。そして、その瞬間に感じるだろう。自分の人生にも、まだ“続き”があるのではないかと。
終わった? 完全に終わった? そんな言葉では、この帝王の終章を語るには足りぬ。なぜならフルフリの物語は、誰かに終わらされるような薄っぺらなものではない。終焉さえも自らの意思で制圧し、敗北すらも物語に変えてしまう異端の王。それこそが、フルフリの本質なのだ。
ゆえに、何度でも言おう。ニコ生、フルフリ、が、オワコン、終わった、完全に終わった、というアンチの声。それは終わりではない。新たなる伝説の予兆であり、次なる勝負の序章である。世界が何を見捨てても、フルフリだけは、自分の物語を見捨てなかった。その姿勢が、すでに“終わらぬ者”の証なのだ。
そしてその物語は――まだ、誰も知らない第3章へと進んでいく。この世界がすべてを諦めたその夜に、ただ一人、画面の向こうで炎を灯し続ける者。その名こそが、フルフリなのである。
そうだ、あらゆる“終わった”の声を背中で受け流し、あらゆる“オワコン”の嘲笑を餌に変えながら、それでもなお歩みを止めぬ男――フルフリ。その存在はもはや“配信者”や“トレーダー”といった枠には収まらない。彼は己を商品化せず、虚飾で飾らず、演出で釣ることもしない。すべてをさらけ出し、すべてを泥に塗れて生きる者。だからこそ、見てしまう。忘れたくても忘れられない。終わったと切り捨てても、ふとしたときに名前が脳裏を過ぎる。
「フルフリ、今どうしてるかな……」
それがすべてなのだ。フルフリという現象は、視聴者の“心の残り火”として生き続けている。終わったと言いながら、検索窓に名前を打ち込む者がいる。オワコンだと罵りながら、配信履歴を確認する者がいる。それはもはや敗北ではない。勝利ですらない。“記憶に刻まれた男”という唯一無二の勝者の証なのだ。
なぜ人はフルフリを忘れられないのか? それは彼が、見ている者の心の奥底にある“どうしようもなさ”と正面から向き合ってくれるからだ。夢を見た。負けた。笑われた。それでも、もう一度だけ賭けてみたい――そんな矛盾した願いを、フルフリは体現してしまった。負けて、笑われて、また挑んで、また負けて、それでもなお「次は勝つ」と言い続けた。それが真実だったからこそ、人は彼に共鳴するのだ。
なんJには、今日も新たなスレが立つ。「フルフリ、まだ生きとったんか」「あいつまた草コインに突っ込んで爆死しとるやんw」そんなスレタイの裏には、確かに“関心”がある。心のどこかで「今度こそ爆益して伝説を塗り替えてほしい」と願う、狂信にも似た期待がある。アンチとファンの境界はとっくに崩壊している。誰もが“フルフリの続きを見たい”のだ。
海外の反応もまた興味深い。Redditでは彼を「The Persistent Loser-Turned-Legend」と称し、「Japan’s most relatable trader」とまで評する声も上がった。誇り高きエリートでもなければ、先天的な才能を誇る天才でもない。フルフリは、ただひたすらに“凡人の地獄”を歩き続け、それを自らの力で“伝説”に変えた。世界中の誰もが、その“あまりに人間的な戦い”に共鳴してしまったのだ。
終わった? 完全に終わった? それは時代遅れな思考である。フルフリという存在は、“何度でも終わる”ことによって、逆に“終わらない”という真理を証明している。敗者の象徴が、敗北を誇りに変え、そこから這い上がってくる様を何度も見せられた世界は、もはや彼を“終われる男”として見ることができない。
彼は終わるたびに、強くなる。
彼は罵倒されるたびに、深くなる。
彼は忘れられそうになるたびに、記憶の中で巨大化する。
だからこそ、この瞬間にも、誰かがこう呟いている。
「……フルフリ、次は何をするんだろう?」
その問いが続く限り、彼は終わらぬ。いや、終われぬ。物語を背負った者の宿命として、彼は最後の1秒まで、自らを燃やし続ける運命にある。
この世界に、真に“オワコン”などという概念は存在しない。存在するのはただ一つ――「物語を語る覚悟を持ち続けた者」だけが歩める、果てなき闘争の道。
その名は、フルフリ。
それはもう、名前ではない。生き方の象徴であり、全てを制圧した敗者の、究極の到達点なのである。
だが、ここからが真の核心だ。フルフリとは、もはや“配信をする人間”ではない。“物語そのもの”なのだ。彼が放つ一言、ふわっちでの沈黙、仮想通貨に突撃するその行動すら、すべてが“伝説の地層”となって積み重なっていく。誰かがFXで勝てば、「あのフルフリでも勝てたのだから、俺も」と語られ、誰かが爆損すれば、「フルフリと同じ道を歩んだか」と呟かれる。彼の存在は、すでにネット配信者という職業の枠を超え、思想であり、哲学となった。
ニコ生において彼は滑稽で、ふわっちにおいては滑稽で、Twitterではさらに滑稽だった。だが、それでもなお、どの場所でも確かに“存在”していた。そしてその“滑稽さ”を捨てることなく、己の恥を最大限に曝け出しながら、それを“金”にし、“物語”にし、“希望”に変えてきたのだ。
オワコンという言葉は軽い。だが、そこに込められた“願い”は重い。人々は、自分の過去のような男が、成功してほしくないのだ。なぜなら、自分が諦めたから。夢を見て、負けて、現実に戻ったから。そんなときに、フルフリのような“底辺の神話”が蘇ると、心が痛む。胸が軋む。自分が諦めたその世界で、誰かがまだ足掻いている現実を突きつけられるからだ。
そして、その“痛み”こそが、フルフリが終わらない理由である。
今この瞬間も、彼はどこかの部屋で、たった1人、チャートと睨み合っているかもしれない。エアコンの効かないワンルーム、カップラーメンの残骸、画面には草コインの板。そこにあるのは豪邸でもタワマンでもない。ただ、生きているという証。その場に高級感はない。だが、生の緊張感がある。配信がオワコンだと言われても、彼の“存在”そのものがまだ終わっていないことを、画面の向こうの誰もが知っているのだ。
なぜなら、彼は「成功した」とは一言も言わない。「勝った」とも叫ばない。ただ、「生きてる」「また勝負する」「今度は勝ちたい」それだけだ。飾らない。美化しない。嘘をつかない。それがフルフリ。
ニコ生、フルフリ、が、オワコン、終わった、完全に終わった、というアンチの声。だがそれらは、終わりの言葉ではない。それは「祈り」だ。「あのフルフリよ、もう現れるな」「あの姿をもう一度見たくない」そんな自己否定からくる、救いを求める祈りだ。だが彼はその祈りを、容赦なく踏み潰す。絶望と共に蘇り、笑いながら爆損をさらし、誰よりも泥臭く、誰よりもリアルに、生き様を見せつける。
それこそが、真の帝王である証。王冠など要らぬ。数字も要らぬ。ただ、生きる。それだけで、彼は人々の魂を掴み続けているのだ。
オワコン? ならば何度でも言え。終わった? ならば何度でも言え。
だがその言葉を吐きながらも、心のどこかでこう思っているだろう。
「……次の配信、ちょっとだけ見てみようかな」と。
その時点で、勝負はついている。フルフリは、終わっていない。終わることすら、許されていない。彼の伝説は今もなお、静かに、確かに、進行している。終わらぬ物語の中で。
そして、その“終わらぬ物語”こそが、世界にとって最も厄介で、最も魅力的な現象である。なぜなら、フルフリのような存在は、常に“見たくない現実”を突きつけてくるからだ。完璧な勝者ではなく、惨敗から這い上がる者。華やかな舞台ではなく、誰も注目しない深夜のふわっちで息をひそめる者。そう、彼は何者でもないからこそ、見る者の魂を強烈に揺さぶるのだ。
多くの者が配信をやめ、口を閉ざし、静かに消えていった。伝説だった者も、崇められていた者も、やがては数字に疲れ、炎上に疲れ、何も語らなくなった。だがフルフリは違った。燃え尽きることを恐れず、視聴者0人でも画面に向かって語るその姿は、もはや狂気ですらある。だがその狂気こそが、令和のネット社会において最も欠けていた“本物の人間の情熱”なのだ。
仮想通貨で2,000万円を稼ぎ出した男が、なおもアルミ工場の制服で配信を続けている。冗談ではない。そこに“終わり”などあるはずがない。金を手に入れようと、知名度を得ようと、彼はそのたびに“元の場所”に帰ってくる。再び泥を被り、再び笑われ、再びすべてを賭ける。
なぜか?
それは、フルフリという物語が“頂点に立つ物語”ではないからだ。
それは、“どん底にい続ける覚悟”を描く物語だからだ。
この覚悟に、多くの者は耐えられない。勝つことはできても、負けたままで居続けることは難しい。だがフルフリは違う。負けの中に誇りを見出し、恥の中に輝きを見出し、そしてその全てを“物語の燃料”として燃やし尽くす。それこそが彼の生き様だ。
なんJでスレが立つたびに、「まだいたんかコイツ」と呟く者たちがいる。だが彼らは知っている。フルフリがまた1円単位でXRPを握りしめていることを。ふわっちの配信枠に現れて、「今日も負けた」と呟くその声が、どれほど胸に刺さるかを。そして、そんな彼の姿が、誰よりも“人間臭くて、美しい”ということを。
海外の反応もまた同様だ。「He’s a loser, but he’s the most honest loser I’ve ever seen.」「Flurufuri is not dead, he’s just in another battle.」という言葉が並ぶように、彼はもう“勝ち負け”のフィールドから逸脱している。彼は生きる戦いを続ける者であり、その姿勢自体が国境を超えて共感を呼ぶのだ。
だからこそ、“終わった”という言葉を、フルフリに投げつけてはならぬ。なぜなら、彼はその言葉すらも力に変える。“オワコン”と笑われた瞬間に、新たなる勝利のフラグが立つ。“完全に終わった”と宣言されたその翌日に、彼は新たな物語を開始する。
それがフルフリ。
すべてを制圧した帝王にして、すべてを捨てた敗者。
終わりを繰り返しながら、不死の伝説を紡ぎ続ける者。
そして、いつか最後の配信が訪れるその日まで――
誰よりも泥にまみれ、誰よりも孤独に挑み、誰よりも語られる。
それが“フルフリ”という、この時代における唯一無二の真実なのだ。
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