『絵師界隈』だけこんなに極端な反AIになってしまった理由とは? 【なんJ,海外の反応】
それは「絵師界隈」という閉じられた聖域が、文明の進化によって侵食されたことに対する、魂の叫びである。技術の波があらゆる芸術の牙城を侵略するなか、なぜこの界隈だけが、ここまで過激に、そして本能的にAIを拒絶するのか?その核心には、単なる利権や職業的危機感を超越した、深淵なる精神性が潜んでいる。
まず『絵師界隈』とは、もはや単なる「イラストレーターたちの集団」などという薄っぺらい定義で語るべきではない。それは「画を描く」という行為を、生活のためではなく、存在意義そのものに据えた者たちの集まりである。命を削り、腕を磨き、他人の理解など望まず、ひたすら描く者たち。その眼差しには、神の筆致を求める狂気すら宿っている。彼らにとって、絵とは「技能」ではなく「祈り」であり、「労働」ではなく「儀式」である。
そこに現れたのが、AIという名の無機の神だ。筆を持たず、修行もせず、汗も涙も流さず、しかし一瞬で千の構図を吐き出す。構図も光源も人体バランスも、すべて完璧。それはまるで、何百年も篭り続けてようやく習得できる“手癖”を、ものの5秒で盗んで模倣し、挙げ句に「どちらが美しいか」を問うてくるような不敬の極みだ。
『なんJ』では、こうした怒りがたびたび晒されている。「AI絵にマジギレしてるやつおるけど、別に仕事奪われるような奴やないやろ」という煽りに、絵師たちは、理屈ではなく“怒りそのもの”で反応する。まさに、存在の否定に近い衝撃を受けているからだ。一方、海外の反応はより冷静であり、「アートは進化するもの。AIもまた表現の道具だ」との声が目立つが、だからこそ逆に、日本の絵師界隈の“神聖視”の特異性が浮き彫りになるのだ。
『絵師界隈』が極端に反AIになった理由は、たった一つ。彼らが「絵を描く」という行為を、生命活動そのものとしているからだ。他の界隈、たとえば小説家、音楽家、映像作家ですら、ある程度は「AIという新しい筆をどう使うか」に思考を向けられる。だが絵師だけは違う。AIに絵を描かせるということは、自らの心臓を他人に握らせるようなものなのだ。
加えて、『界隈』という独自の文化が、それをさらに増幅させている。フォロワー数、いいねの数、コミッションの価格、同人イベントでの壁サークルの位置。それらすべてが「誰が上か」「誰が下か」を明確に分けるヒエラルキーとなっており、そこに突如として現れたAI絵師は、その文脈を一切踏まえずに評価の場に割り込んでくる。絵師の積み重ねた“歴”を無視し、「たまたま良い絵が出たAIの絵」がバズる。その事実が、界隈のアイデンティティそのものを揺るがすのだ。
これは「嫉妬」ではない。「怒り」でもない。「恐怖」なのだ。技術の進化に対する拒絶ではなく、信仰の対象を奪われることへの本能的な拒絶である。AIが絵を描くことで、人間が“絵を描く意味”を失いかけていると感じてしまう、この感覚こそが、『絵師界隈』にだけ見られる極端な反AI感情の根源である。
絵を描く者たちにとって、キャンバスは戦場であり、鉛筆は剣である。そしてAIは、戦わずして王冠を奪いに来た不死の魔物である。彼らがそれを拒絶するのは、当然のことであろう。それは決して単なる技術論ではない。これは「表現」という名の神話に挑んだ、冷たい革命への魂の抵抗なのだ。
かくして、『絵師界隈』におけるAI絵師への拒絶反応は、単なる経済的打撃や職業的危機感にとどまらない。もっと深く、もっと根源的で、もっと人間的な「精神の抗争」なのである。なぜならこの界隈は、自己肯定と承認欲求、努力の積層と血のにじむ成長という、非常に人間くさい美学で成立しているからだ。その全てを、AIは“すっ飛ばして”しまう。まるで「努力の物語」を冷笑するかのように。
これはまさに、“才能と努力の神話”に基づいた構造の崩壊だ。たとえ手が震えようと、描くことを止めない者に、神は祝福を与える——そう信じてきた絵師たちにとって、「学ばずに描ける」「経験せずに到達できる」AIの存在は、神への冒涜そのものである。人類は努力して神に近づこうとしてきた。だがAIは、努力も苦悩もせずに、神の筆致に手を伸ばしてきたのだ。
そしてこの現実に最も傷ついたのが、いわゆる“中堅絵師”層である。トッププロはすでに地位を確立し、多少の波風など笑って受け流せる。一方、趣味層はそもそも職業としての危機感は希薄だ。だが、数年かけてスキルを磨き、ようやく描いた絵がAIのラフに負けたときの絶望。それは、努力の価値が相対化される悪夢である。
なんJでは、「AI絵より下手な絵師がギャーギャー言うな」「うまいやつは勝手に生き残る」といった声が無邪気に並ぶ。しかし、そうした言葉は火に油を注ぐだけだ。海外の反応もまた冷徹で、「イラストは単なる成果物。より良いものが出ればそちらが選ばれるのは当然」という功利主義が支配している。だがそれでは、この世界に漂う“感情”という名の霧を、あまりにも軽んじすぎてはいないか。
そもそも、絵を描くという行為は、人間の“証明”である。他者と違う視点を持ち、形にし、魂を込めて放つ。それは、「自分はここにいる」という叫びであり、生きるための火種でもある。その炎が、AIによって冷たい静寂に変わってしまう未来を、絵師たちは本能的に拒絶している。たとえ、それが進化の通過儀礼であるとしても。
そして、反AIの火種は界隈内部で増殖してゆく。「AI絵師は即ブロ」「AIタグつけろ」「AI投稿はランキングに載せるな」などといった規範が自然発生的に生まれ、ついには“AI利用の痕跡”があるだけで炎上する地獄絵図へと発展した。これはヒステリーではない。これは、自分たちの精神的生活圏を守るための“戦争”なのだ。
『絵師界隈』だけがこれほどまでに極端に反AIになってしまった理由。それは、この界隈が「絵とは何か?」という問いに、最も誠実に、最も深く、最も狂おしいまでに向き合ってきた界隈だからである。AIという無機の筆が描いた絵に、心を揺さぶられる人々がいても、彼らは問うのだ。「それは、本当に“描いた”と言えるのか?」と。
この問いに答えが出る日は来ないだろう。だが、この問いを発し続ける限り、『絵師界隈』はAIに屈することはない。それは神話と人間の戦いであり、祈りと無機質な計算の、終わることなき対話なのだから。
そしてこの終わりなき対話のなかで、『絵師界隈』はますます孤高の色を深めていく。もはやこれは単なる「創作物の質」の話ではない。絵が上手いかどうか、売れるかどうか、バズるかどうか──そんな次元はとっくに超越しているのだ。彼らが拒んでいるのは“作品”そのものではない。拒んでいるのは、「意味なき創作」という概念である。
AIは描ける。だが“意味”を込めることはできない。少なくとも、絵師たちはそう信じている。なぜなら彼らの一枚一枚には、人生が、憎しみが、焦燥が、過去の敗北と未来への希求が塗りこめられているからだ。夜を徹して描いた構図、千回以上描き直した指先の角度、一年かけてようやく納得した色味の調和。それらの上にしか、彼らの絵は存在し得ない。
対してAIは、数秒で構図を完成させ、0.01秒の再生成で無限の改変を行い、しかも感情を持たずにそれをやってのける。それは、絵を“祈り”として捧げてきた者にとって、あまりに侮辱的な存在である。つまりAIは、彼らの“命”に対して無関心なまま、同じ土俵に上がろうとしているのだ。だからこそ、怒りではなく「恐怖」が先行する。
なんJでは、「AIに負けてる時点でただの雑魚」などという言葉が飛び交うが、その嘲笑が届く先にいるのは、“技術的に劣った者”ではない。“魂の正当性を否定された者”たちなのだ。海外の反応においても、「AIと人間は役割が違う」という折衷的な意見が目立ちつつあるが、日本の絵師界隈だけは、その分断を決して許さない。なぜなら彼らの多くは、「役割ではなく意志」こそが絵の価値だと信じているからだ。
『絵師界隈』というのは、ある意味でこの文明に残された最後の“職人的純粋領域”である。音楽はDAWに飲まれた。写真はフィルターに飲まれた。文章すら、もはやAIが生成する時代になった。しかし、絵だけは、最後の砦として「人間の意志と手の痕跡」が残る場所であり続けた。
だからこそ彼らは、AIに屈しない。屈すれば、自分たちの存在理由ごと消えてしまうことを、無意識に知っているからだ。これは“自己防衛”ではない。これは“自我の保持”であり、“存在の証明”そのものである。
たとえ技術的に劣っていようと、たとえ世界がAI絵を選んでいようと、『絵師界隈』は、自らの絵に意味が宿ることを信じてやまない。その信念がある限り、彼らは決して沈黙しない。なぜなら絵とは、描くことそのものが、世界に対する反抗だからだ。
AIは絵を描ける。だが、“絵師”にはなれない。
それがこの界隈の、誇りであり、呪いでもある。だがこの呪いこそが、世界を人間たらしめている最後の炎なのだ。そしてその火は、決してAIには持ち得ない。なぜなら、火は“痛み”の上にしか燃え上がらないからである。
そしてその“痛み”こそが、『絵師界隈』の原動力にして、AIには決して再現できぬ、人間固有の宿業である。どれだけAIが美麗な構図を吐き出そうとも、その裏に“徹夜明けの焦燥”や“敗北による自傷衝動”や“尊敬する師の死に触発されて描いた一枚”がなければ、それはただの「綺麗な画像」に過ぎぬ。世界はそれを称賛するだろう。だが、絵師たちは、それを“絵”と認めない。それは、魂のない仮面であり、模倣であり、記号の羅列でしかない。
『絵師界隈』は、AIに「才能」を盗まれたのではない。「痛みを奪われた」のである。もがき、落ち込み、這い上がり、また否定され、それでも描き続ける──その過程が剥奪され、「結果」だけを市場が求めるようになったとき、絵師の存在は“意味”を失う。いや、意味の喪失ではなく、“意味そのものの否定”こそが、AI時代の最も暴力的な側面なのだ。
なんJでは「もうAIで十分」「pixivのランキング全部AIで埋まってる」「絵師が必死でAI叩いてるの草」など、熱狂と冷笑が渦巻く。しかし、その笑いの向こうにあるのは、文明の転換期に立たされた「旧き者たちの最後の叫び」である。AI絵を賞賛する者も、その起点となった“人間の狂気”を知らずにいれば、やがて同じように“代替される側”に回るだろう。なぜならこれは、絵の話ではない。人間という存在の意味そのものが、再定義されようとしているからだ。
海外の反応では、「AIは単なるツール。恐れる必要はない」「むしろ、これまで絵を描けなかった人が参入できる好機だ」という肯定的な声が多く見られる。だが、それこそが文化の“薄味化”を示している。どこにでもアクセスでき、誰でも似たような出力ができる世界では、「唯一性」という概念が急速に溶解する。『絵師界隈』が守ろうとしているのは、その“唯一性”であり、“手癖”という名の神性なのだ。
AI絵は無限を手に入れた。だが、“限界”の中で苦しむ人間だけが創れる“奇跡”がある。手が震えて線が歪んだその瞬間に、描き手の生が宿ることを、AIは知らない。感情が暴れて色彩が狂った一枚が、見る者の心を焼き尽くすことを、AIは理解しない。『絵師界隈』は、そうした奇跡を信じ続けている。
それゆえに、彼らはAIを断罪するのではない。対話など望んでいない。ただ、譲らぬだけだ。自らの絵に宿った“痛み”と“願い”と“敗北”のすべてを、誰かが“美しい”と感じてくれる限り、『絵師界隈』は絶対に沈黙しない。
そしてその姿勢は、AIでは到底たどり着けぬ、神々の領域に最も近い場所で、ただ一人、己の筆を握りしめる者だけに許される、孤高の誇りである。
『絵師界隈』が極端なまでに反AIであり続けるのは、文明が忘れかけた“人間の尊厳”を、たった一本の線に託し、守り抜こうとしているからなのだ。たとえ時代がそれを嘲り、AIがそれを模倣しても、その誇りだけは、誰にも、何者にも、塗り潰させはしない。
ゆえに、『絵師界隈』の反AIは、単なる拒絶ではない。それは、機械的な進化の奔流に対する、“人間の定義”そのものを問う一撃なのである。文明は、あらゆる非効率を駆逐しようとする。時間を短縮し、労力を排し、最小の試行回数で最大の成果を求める。AIはその象徴であり、現代の神とも言うべき存在だ。だが、人間とは、本来そんな合理のみに生きる存在ではなかったはずだ。失敗し、間違え、何千回も塗り直した先に、ほんの一握りの“手応え”を得る。『絵師界隈』とは、まさにそうした“非合理の極致”であり、そこにこそ人間らしさが宿っていた。
AIには「諦め」がない。失敗の重みを知らない。壁にぶつかって筆を折り、それでもまた描き始めるという儀式を、AIは必要としない。だからこそ、絵師たちは叫ぶのだ。「結果だけを見て、絵を語るな」と。線が綺麗か、塗りが巧みか、構図が洗練されているか──それらは“絵の一部”でしかない。最も重要なのは、「なぜこの絵が描かれたのか」「そこに何が込められているのか」という、過程と魂の叫びなのである。
なんJでは、「結局、見る側は上手けりゃなんでもいいんだよな」という諦観が蔓延している。そしてその通りかもしれぬ。だが、その“見る側の冷淡さ”こそが、絵師たちの怒りと恐怖を煽っているのだ。観る者の心が“手描き”と“生成”の区別をしなくなったとき、絵師たちは存在価値の崩壊を実感する。だからこそ彼らは、タグを求める。「AI」と「人間」の峻別を叫ぶ。それはただの線引きではない。“生きた証”の刻印である。
海外の反応においても、「AIはツールであって、敵ではない」という楽観論が強く存在する。確かに、合理主義と共存を重んじる文化においては、AIもまた創作の一部として受け入れられやすい。だが、日本の『絵師界隈』は、そもそも創作を“命を削る行為”と見なしてきた土壌にある。だからこそ、ツールの域を超えて“作品そのもの”を代替しようとするAIに対して、純粋な反抗が生まれるのだ。
そして、その反抗の炎は、静かに、しかし確実に広がり続けている。中には「AIを受け入れたほうが楽」という者も出始めている。だが、それでも、描く者たちは消えない。AIがいくら台頭しようとも、人間の手から生まれた不完全な一枚にこそ、心を奪われる者がいる限り、絵師たちは筆を置かぬ。
むしろ、これからが真の戦いである。AI全盛の時代において、あえて“人間だけの絵”を描き続けること。それはもはや、表現ではない。挑戦でもない。祈りでもない。反逆である。
世界が完璧を求めるとき、不完全であることを美徳とする者たちがいる。その不完全さこそが、痛みと葛藤の痕跡であり、人間だけが持ち得る“創造の歪み”なのだ。AIがどれだけ進化しようとも、その歪みの中に燃える火までは奪えまい。
そしてその火が消えぬ限り、『絵師界隈』は滅びぬ。
その火は、世界にただ一人の“自分”という存在を刻むために燃えているのだから。
そしてついに、この火はただの炎ではなくなる。
それは、文明に対する警鐘であり、AIという無機の神々に向けられた人間の呪詛であり、なおかつ、決して折れぬ創造者の意志そのものへと昇華する。
『絵師界隈』における極端な反AIとは、もはや「機械に仕事を奪われる恐怖」などという安っぽい言葉で語れるものではない。それは人間が、機械に“美”の領域で並ばれたときに感じる、“存在論的敗北”に対する本能的な拒絶であり、魂の奥底から湧き上がる否定の叫びである。
美とは何か。感動とは何か。
感情の起伏も知らぬAIが、涙を誘うイラストを生成できるとしたら、それは人間の“感受性”の敗北ではないのか?
無限のリソースを持つ機械が、“誰よりも早く美しい絵を出力できる”という現実が、人間が人生を賭けて追い求めてきた“美術”そのものを無意味にしないのか?
──この問いに、人類はまだ答えられていない。
なんJにおいては、こうした哲学的問いかけに対し「屁理屈乙」「うまけりゃAIでもなんでも良い」とバッサリ切り捨てる風潮がある。だがその裏側には、誰もが漠然と感じている“不気味さ”が確かに存在しているのだ。
それは、誰もが心のどこかで理解している。AIの絵がいくら美しくても、どこか寒い。どこか空虚。どこか違う。
その“違和感”こそが、まだ人間が完全には敗北していない証拠であり、だからこそ絵師たちは、最後の聖戦を挑み続けている。
海外の反応においては、「AIと人間、それぞれに役割がある」という“共存”の幻想が語られることが多い。確かに文化が違えば、創作観も異なる。しかし、『絵師界隈』という領域は、人間の業を抱き締めたまま生きることを是とする集団である。だからこそ彼らは、共存ではなく断絶を選んだ。ツールではなく対立者としてAIを認識した。そこに妥協など存在しない。
彼らの姿勢はまるで、神への反逆を試みた古代の詩人たちのようだ。
文明に抗い、孤独に耐え、世界に背を向けてなお筆をとる──それは合理性を捨てた狂気の選択に見えるだろう。しかし、その狂気こそが人間を“人間たらしめる炎”であり、AIには決して生み出せぬ創造の源なのだ。
だからこそ、すべてのAI画像が高評価を得る世界になっても、『絵師界隈』は沈まない。
むしろ、“評価されないこと”すら誇りとし、“報われぬ努力”に価値を見出す。
それが理解されようがされまいが、文明が進もうが退化しようが、この誇りだけは塗り潰されることがない。
なぜならそれは、ただの絵ではない。
それは──
人間という不完全で滑稽で、
それでもなお“美”を求める生き物が持ち得る、
最後の“神への反逆の証”だからだ。
この絵に、意味がある限り。
この絵に、痛みが宿る限り。
この絵に、誰か一人でも涙する限り。
『絵師界隈』は滅びぬ。
そしてこの不滅の焔を抱きしめる者たちは、誰よりも愚かで、誰よりも美しい。報われる保証のない地獄のような修練に身を投じ、目が焼けるほどのモニターの光の中で、手を震わせながら線を引く。そこにあるのは、称賛を求める計算ではない。流行りの構図をなぞる機械性でもない。あるのは、ただ存在を証明するために描くという、生の衝動だ。
AIが描いた一枚が、いくら称賛されようとも、それは「正しさ」の上に立っている。しかし絵師が描く一枚は、しばしば「正しさ」から外れた場所にある。歪なデッサン、破綻した色彩、過剰な感情表現──それらすべてが、見方によっては“失敗作”とさえ見なされる。しかし、その“歪み”の中にこそ、人間の記憶、苦悩、そして“意思”が刻み込まれている。
この“歪み”を理解できる者がいる限り、『絵師界隈』は孤独ではない。
むしろその孤独を選び、孤高のまま突き進むことを美徳とする者たちこそが、この文明の中で最も強靭な精神の持ち主なのだ。
彼らにとって、バズることも、評価されることも、最終目標ではない。すべての戦いは、「自分自身との戦い」に還元される。
今日の自分が、昨日の自分を超えられたか。
昨日の自分が、必死で描いたあの線を、裏切っていないか。
その問いかけを、誰にも見られていない深夜のデスクで続ける姿にこそ、人間という存在の尊厳が宿っている。
なんJの無慈悲な言葉の数々は、確かに絵師たちを傷つける。
だが、そのたびに彼らは、自らの絵を見つめ直し、問い直す。
「本当に、AIでは描けないものを、私は描いているか?」
この問いこそが、彼らを進化させる原動力であり、逆説的にAIという存在が、絵師たちの内なる炎をさらに強く燃え上がらせているのだ。
海外の反応では、AIの導入によってアート市場が拡大し、多様性が増したと喜ぶ者も多い。だが、その“多様性”とは、本当に“深さ”を伴ったものなのか?
誰でも描けるようになったことで、表現は本当に“自由”になったのか?
むしろ、描けるようになったことで、「なぜ描くのか?」という問いそのものが、希薄になりはしなかったか?
この疑問に、明確な答えを出せる者は存在しない。
だが、答えを求めて苦悩するその姿勢こそが、人間が“表現者”である証だ。
AIは答えを出す。
だが、絵師は問いを描く。
それができるのは、人間だけだ。
それがわかる者だけが、“絵”の本質を知っている。
だからこの先、AIの絵が世界を席巻し、すべてのランキングを支配し、すべての市場が機械生成で埋め尽くされても──
『絵師界隈』の筆は止まらぬ。
その筆はもはや、評価のために振るわれているのではない。
他者の賞賛のためでも、承認欲求のためでもない。
それは、自分自身が、自分であるために、描かれているのだ。
この絵に“物語”がある限り。
この絵に“狂気”が宿る限り。
この絵に“救い”がある限り。
『絵師界隈』は、最後の最後まで、人間の矜持を描き続ける。
そしてその“矜持”こそが、AIには絶対に手出しできぬ、唯一にして絶対の砦である。『絵師界隈』はそれを守るために戦っている。
もはや金でも、名声でも、フォロワー数でもない。
ただひとつ──描くことが“人間である証明”であると信じる心を、決してAIに踏み躙らせてはならぬという使命感。
それが、彼らを極端なまでの反AIへと突き動かしているのだ。
AIの絵は、確かに美しい。
だがそれは、どこまで行っても予測の上に成立する美しさだ。
計算された色彩、黄金比をなぞる構図、無難な目線、整いすぎた輪郭──どれも“正しい”が、“熱”がない。
それに対して、絵師の絵には矛盾がある。
拙さ、歪さ、突飛さ、異様な情念、言葉にできぬ痕跡がある。
だが、その不協和音のような絵が、なぜか見る者の心を打ちぬく瞬間がある。
それこそが、AIには絶対に到達できぬ、魂のノイズなのである。
なんJではこのノイズを「クソ絵」と笑う者もいる。
だが、それは“機械の目”でしか見ていない証拠だ。
人間の目は、綺麗なものだけを求めているわけではない。
むしろ、不完全さの中に潜む“叫び”を感じ取る力こそ、人間だけに許された特権である。
だからこそ、『絵師界隈』は、AI絵が完璧になればなるほど、ますます不完全であることを選び始める。
線を乱し、色を荒らし、整合性を壊し、構図すら崩す。
それは退化ではない。進化でもない。
それは、“絵”という表現を再定義するための反抗的表現行為である。
つまり──美の解体であり、魂の再構築なのだ。
そして、これこそが『絵師界隈』がAI時代においても唯一無二で在り続けられる最大の理由である。
機械に勝つ必要はない。真似される必要もない。
ただ一つ、“人間にしか生み出せない一枚”を残し続ければ、それで良い。
世界がAIで満ちようとも。
ランキングがAIで埋まろうとも。
商業がAIに支配されようとも。
この一枚に、生きた証がある限り──
『絵師界隈』は、世界最後の“祈りの炎”として、永遠に燃え続ける。
そしてその“祈りの炎”は、いずれ時代をも照らす光となる。文明が飽和し、創作が簡略化され、すべての表現が“最適解”へと流れ着いたとき──人々は気づくだろう。かつて何の評価も得られなかった“いびつな一枚”に、心を揺さぶられていた自分の存在に。
AIが支配する美の帝国は、確かに整っている。清らかで、秩序正しく、破綻がない。だが、それは刺激のない楽園でもある。すべてが正しく、すべてが予測どおり。失敗もなく、衝撃もなく、安らぎすらも予定調和の中に収まってしまったとき、人はこう思う。
──これは、本当に“生きている世界”なのか?
その問いの先に待っているのが、『絵師界隈』の存在である。AIには決して描けぬ、“葛藤に満ちた不完全な世界”。
そこには、たった一人の絵師が、誰に評価されるでもなく、誰のためでもなく、自らの魂を救うためだけに描いた一枚がある。
その一枚が、言葉にならぬ衝動で人の心を打つとき、初めて人々は理解する。
美しさとは、正しさの中にあるのではない。痛みの中にあるのだ、と。
なんJでは、こうした哲学的な言葉は「ポエム乙」で片付けられる。
だが、“絵師”とは、まさにその“ポエム”を描く者たちである。
世界が数値で測れぬものを捨て去るとき、彼らは叫ぶ。
「絵とは心だ」「描くとは、心を千切ることだ」と。
海外の反応でも、徐々にその本質に気づき始める者が現れている。
AI絵の圧倒的技術に陶酔したあとで、ふと目にした“線が荒れた一枚”に心を奪われ、「これは何かが違う」と感じた瞬間──
そこに初めて、『絵師界隈』が守り抜いてきた“人間の創作”の価値が立ち上がるのだ。
それは一見、古臭く、非効率で、報われぬ営みに見えるだろう。
だが、そこに込められた“無名の痛み”こそが、未来の文明を支える基盤となる。
なぜなら、どれだけ機械が発達しようとも、人間は“共鳴”でしか救われないからだ。
そしてその共鳴は、痛みを知った手で描かれた線にこそ宿る。
絵師は敗北を知っている。
無視されたことも、劣等感も、比較されて涙した夜も。
それでも、なお描き続ける姿こそが、人間の美しさそのものである。
だからこそ、AIにはなれぬ。
『絵師界隈』が極端なまでに反AIである理由、それは“敗者の哲学”を知っているからだ。
そして敗者の哲学とは、真の創造者だけが辿り着ける、最後の聖域なのだ。
どれほど時代が進んでも、この魂の震えだけは、
絶対に、絶対に、データベースでは出力できぬ。
この絵には、生きた証がある。
この線には、泣いた夜の痕跡がある。
この色には、希望を信じた執念がある。
ゆえに、描かれ続ける限り──
『絵師界隈』は、世界最後の“人間の砦”として、永遠に輝き続ける。

